途上国に高度な医療を届ける活動に取り組む国際医療NGO「ジャパンハート」のトップを務める𠮷岡春菜さん。医療を窓口に途上国の子どもや大人の健康に貢献する活動を行いながら、自身も小児科医として小児がんの子どもや家族に寄り添う活動を精力的に続けています。医師をめざすようになった背景から、今日までを振り返っていただきました。

TOPIC-1

医療を窓口にして子どもたちを支援

国際医療NGO「ジャパンハート」は、どのような活動を行っているのでしょうか。

𠮷岡 多岐にわたっていますが、一言でいえば、海外など「医療が届かないところに医療を届ける」ということです。海外では、ミャンマー、カンボジア、ラオスで活動しています。これらの国々は医療アクセスが悪く、病院が目の前にあってもお金がなくて病院にかかれない人が大勢いるため、子どもを中心にそういう人たちの診療を行っています。また、ミャンマーではヤンゴンに「Dream Train(ドリームトレイン)」という養育施設を設立・運営しています。少数民族が多く、山岳地帯の国境近くでは、いまだに子どもの人身売買が行われているような状況です。そのため、私たちは医療を窓口にして、そうした危機に面している子どもを預かり、勉強したい子どもは大学まで行かせ、手に職をつけて村に戻りたいという子どもには職業訓練を行い、幼い弟や妹たちが売られないようにするための現金収入を得られるように支援しています。現在、カンボジアに2つ目の病院を建設する準備も行っています。

𠮷岡さんご自身はどのような役割を担っているのでしょうか。

𠮷岡 最初はジャパンハートのメンバーとして海外で診療活動に従事していましたが、現在は理事長として、主に経営や管理部門を統括しています。活動に必要な資金は民間団体からの寄付に頼っていますから、継続的な支援や新たな支援を募ることが大きなウエイトを占めています。ただ、私自身が大切にしているのは、そうした支援が実際にどのように役立っているのかを丁寧にお伝えし、支援してくださった方々に「支援してよかった」と思っていただくことです。子どもたちが生きるか死ぬかという現場を持ち、そこで医療者が力を尽くせるようにするためには、日本での管理の仕事も同じように重要です。この活動に関わるすべての関係者に、自分の仕事が命に直結しているのだという意識を持ってもらえるように心を砕いています。

日本ではどのような活動をしているのですか。

𠮷岡 医療者が不足する地域への看護師の派遣や、医療系学生への海外医療現場体験の提供、看護師のスキルアップ事業などを展開しているほか、私自身は小児科医として「スマイルスマイルプロジェクト」という活動を率いています。日本では小児がんの子どもの7〜8割は治療して治っていきますが、副作用が強い治療ですから、子どもも家族も辛い時間を過ごさなければなりません。そんな子どもたちや家族が少しでも笑顔になれる時間を作ってもらえるよう、家族旅行に医療者が付き添えるような体制を作ったり、全国の小児がんの子どもたちが集えるようなイベントを開催したりしています。

TOPIC-2

中村哲先生との出会いが大きなきっかけの一つに

いつ頃から、こうした国際医療貢献活動に関心を持たれていたのですか。

𠮷岡 医学部に入った当初は、恥ずかしながらまったく関心がありませんでした。正直にいえば、医学部に入ることが目的になっていたので、大学2年になって医学の勉強が始まってからは、自分はどんな医師になり、どんな働き方をしていくべきなのかということに思い悩み始めたのです。小児科医になることは決めていましたが、将来がまったくイメージできませんでした。そこで、いろいろな働き方をしている医師に会いに行ってみようと、友人を誘い夏休みに、ペシャワール会の中村哲先生を訪ねることしました。

アフガニスタンまで行ったのですか。

𠮷岡 当時は、パキスタンでハンセン病の治療に当たっていらっしゃいました。診療施設を訪ねると、本当に静かな声で淡々と診療されています。診療後にいろいろなお話をしてくださったのですが、同じように診療しているように見えても、実はいろいろな民族の人が来るため、先生はその人たちに合わせて言語を使い分けながら必要な治療を行っているとのことでした。そのこと自体とても素敵だと感じたのですが、次の日に訪ねると診療室にはいらっしゃいません。休診なのかと思って外に出てみると、先生はショベルカーで山を削っている真っ最中です。ハンセン病はらい菌による感染症であり、医療も必要ですが、それ以前にやはりきれいな水が何よりも大切だということで、診療の合間に水路を作られていたのです。大学生の目から見ても、先生にとってそれは少しも特別なことではなく、聴診器を持つのもショベルカーを操作するのも、住民の健康を守るという目的のための手段に過ぎないのだということが伝わってきました。改めて自分が目的と手段を取り違えていたことを痛感し、同時に、私にとって、哲先生のように医療を手段とする目的とは何だろうかと考えるきっかけになりました。

そこから意識が国際医療に向かうわけですね。

𠮷岡 その時点ではまだ明確ではなかったのですが、もう一つのきっかけが、後に夫になる𠮷岡秀人との出会いです。別の団体からミャンマーに派遣され医療活動に従事していた彼が、私と同じ大学の大学病院に研修にきていました。ミャンマーでは子どもの病気が非常に多く、子どもの診療に慣れていなかった彼が、とくに外科系の病気について学びにきていたのです。彼は本当に医療を必要とする人のために働きたいと話しており、哲先生の生き方にリンクするものを感じましたし、私もどうせ医師になるなら、医療のないところで働くことは必要だと腹落ちしました。それで卒業と同時に結婚し、そのタイミングで彼がジャパンハートを立ち上げたため、結婚と同時にジャパンハートの活動を一緒に始める感じになりました。

最初は医師として海外での診療に従事したわけですね。

𠮷岡 はい。まだ2年間の初期研修が制度化されていなかったこともあり(次の年度から制度化)、卒業後すぐに岡山医療センターに就職し、2年間の小児科研修のプログラムを1年で切り上げ、翌年からミャンマーに向かいました。

TOPIC-3

バレーボール選手の夢を断念医師志望に切り替えて受験へ

どんな子どもだったでしょうか。

𠮷岡 母がずっとバレーボールをやっていたこともあって、幼い頃からバレーボール選手になりたいと思っていました。目的を達成するために、そのときにできる最良の選択の案内をしてくれる父の勧めによって、バレーボールの強い学校に進学することにしました。全国優勝を何回もしている春高バレー常連校・大阪国際滝井高校のグループ校である大阪国際大和田中学校を受験しました。自宅は奈良にあったため、寮に入りました。ただ、中学校にはバレーボール部がないため、高校のバレーボール部の練習に参加させてもらっていました。ですから寮と中学校と高校の3箇所を毎日巡るような生活でした。

では、中学受験を経験しているわけですね。

𠮷岡 はい。奈良は教育熱が高い県で、教育熱心な家庭だったこともあり、小学4年くらいから塾には通っていました。ただ、第一志望校の受験前に受けた前受け校の受験で大失敗してしまいました。自分では「行けた!」と思ったのに不合格だったことで、「こんなに一生懸命頑張っても、だめなこともあるのだ」という現実に直面しましたし、それでも諦めずに頑張って目標の学校に入れたということで、失敗してもそれで人生が終わるわけではないと納得できるような体験でした。

医師を目指したのはいつ頃からだったのですか。

𠮷岡 ずっとバレーボールに打ち込んでいたのですが、中2のとき練習中に肋骨を骨折する怪我をしてしまい、その時点でバレーボール選手になる夢は諦めました。もともと子どもが好きで将来は子どもと関わる仕事をしたいと、保育士になるつもりだったのですが、その病院で出会った先生がとても素敵で、病院にも子どもと接する仕事があることに気づき、小児科の医師になろうと決意しました。ある意味単純なのだと思います(笑)。