約10年前、西アフリカで大流行したエボラ出血熱の緊急対策チームリーダーとして流行を収束させ、エボラ後の強靭な保健医療システムの構築に大きく貢献するなどグローバルヘルスの世界で目覚ましい活躍をしている馬渕俊介さん。2023年4月に東京大学の入学式で新入生たちに祝辞を述べ、ソーシャルメディアで大きな話題を呼びました。夢は行動しながら探し続けるものだと話す馬渕さんに、中高時代やそれ以後の活動について振り返っていただきました。

TOPIC-1

あらゆる感染症に対応できる保健医療システムの構築をめざす

現在、どのようなお仕事をされているのですか。

馬渕 グローバルファンドで、発展途上国の保健医療システムを改善する仕事を統括しています。グローバルファンドは、エイズ、マラリア、結核という世界の3大感染症対策に資金を提供する国際機関として2002年にスイスで設立されました。国連の基金ではなく、各国政府や民間財団、民間企業が資金を拠出する官民パートナーシップによって運営されています。3大感染症だけで毎年世界で240万人もの人が亡くなっていますが、これらの感染症対策は、今回の新型コロナウイルス感染症や、今後の新しい感染症のパンデミック対策にもつながります。2030年までに3大感染症の終息をめざしつつ、新たな感染症の蔓延を防ぐ保健医療システムの構築を支援していくのが、私の仕事です。

ご苦労なさっていることはありますか。

馬渕 マラリア対策が今もっとも厳しい状況にあります。マラリアを媒介するハマダラカが薬剤耐性を獲得しつつあり、地球温暖化でその生息域が広がりつつあるため、対策がますます難しくなっているからです。一方で、ウクライナ戦争などの影響により保健医療に回せる資金が減少するなか、少ないお金で効果的な対策を打ち出すことが求められています。マラリア、エイズ、結核にそれぞれ対応する保健医療システムを作るのは非効率的ですから、これら3つを統合的に対策できるような効率的な保健医療システムを作っていくことが私の使命だと思っています。こうしたグローバルヘルスの問題はこの先も引き続き世界の課題であり続けるでしょうし、今は巨大な国際機関の方向性を決めることができるような立場ですので、やりがいを持ってこの仕事に邁進しています。

TOPIC-2

野球一筋だった中高時代だからこそ見えたものとは

そんな馬渕さんの中高時代はどのようなものだったのですか。

馬渕 ひたすら野球をしていました。中学受験のために通っていた塾から一緒に武蔵中に入学した仲間がほとんど野球部に入ったので、流されて入ってしまったのです(笑)。スポーツではサッカーが得意で、野球はそんなに好きではなかったのですが、入った以上は本気でやろうと思い、高3の夏まで真面目に取り組みました。弱小チームなりにがんばって、地区大会では甲子園常連校の東海大菅生高校に勝ったこともありました。

6年間野球に打ち込んだことは、その後の人生に何か影響を与えましたか。

馬渕 野球をやり続けて良かったと思えることは2つあります。1つは、本当にやり切る力がついたことです。自分で考え、工夫しながらひたすら努力する力は、ここで養ったものだと思います。同時に、やり切ったことで「本当に好きなことをやらないとだめだ」ということにも気づきました。本当に好きなことでないと、他人の評価とか、成果だけが目的になってしまうからです。もう1つは、いい仲間ができたことです。中高一貫校ですから6年間は同じメンバーで過ごします。とりわけ野球部仲間とは今でも仲が良く、肩書きとか仕事に関係なく、すぐにあの頃の友人同士に戻れるという意味で特別な存在です。海外に20年くらい住んでおり、いろいろな友人がいますが、中高時代の仲間の大切さはいつも痛感しています。

中高生の中には好きなことが見つからないという人もいます。

馬渕 いるでしょうね。大人でも本当にやりたいことがわからないという人の方が多いのではないでしょうか。ただ夢は上から降ってくるものではありません。自分が何に興味があるのかは、ひたすら行動して試さないと見つかりません。あるとき急に出会うことがあるかもしれませんが、たとえ見つかったとしても、それを仕事にしていくにはやはり試行錯誤が必要です。それはまるで彫刻をつくるために彫り進めていくようなもので、結局は行動し続け、試し続けながら、探すしかありません。でも、それはきっと楽しいプロセスのはずで、そのプロセスこそが人生なのではないでしょうか。

TOPIC-3

浪人して東大に進学し文化人類学と出会う

高校卒業後の進路についてはどのように考えていたのですか。

馬渕 わが家は学者一家で、父が分子生物学者で母も分子生物学を教えており、祖父は国文学者、叔母は西洋美術の研究者でした。ですから幼い頃から何となく自分も学者になるのかなと思っていました。というより企業で働くというイメージが皆無で、何か好きなこと見つけてそれを仕事にしていくのだろうと思っていました。ちなみに、4歳上の姉は日本美術の研究者になっていますし、その夫も経済学者です。

東大に進学しました。

馬渕 父が東大で教えていましたし、姉も東大に進んでいましたから、自然にそこをめざすようになりました。ただ、ずっと野球だけをしていたので、広い視野で進路を考えられていたわけではありません。たとえば私の妻は、日本の中高生が直接海外の人と交流しながら世界について学び、自分を国際化していくプログラムを提供する「グローブセルフ」という団体を運営しています。そういうプログラムを受けたりできていれば違った視点も持てたのだと思いますが、当時の私は、そうした広い観点から東大を選んだわけではありません。

浪人を経験していますね。

馬渕 受験勉強のスタートは高3の秋ですから、間に合いませんでした。ただ、浪人の1年間はとても楽しい時間でした。何よりも野球から解放された喜びが大きく(笑)、周囲には女子もいましたから(笑)。それに通っていた予備校では単なる受験勉強ではなく、自分の考えを文章にまとめるようなテストもあり、浪人というクッションがあったことで、高校のときには感じなかった、学ぶ楽しさのようなものも感じ始めることができました。

学生時代にはどのような活動に力を入れたのですか。

馬渕 法律や経済には興味がなかったため東京大学文科三類に入学したのですが、野球の反動もあり、何か好きなことを見つけなければいけないと思っていました。どんな学問が好きなのかを見極めるために、興味のある授業は片っ端から受けてみました。そして文化人類学に出会いました。教授が授業でパプアニューギニアのある部族の風習を撮影した映像を流したのですが、鳥に扮した歌い手に感動するとその背中に火をつけ、火傷がひどいほど歌い手として尊敬されることを描いていました。そのとき、自分ではまったく想像できない文化や慣習の中に入っていき、そこで生活しながら人間とは何かを考え、自分たちの社会について考える文化人類学という学問に強烈に魅せられたのです。どの文化にも違いはあっても優劣はないという文化相対主義の思想もしっくりきたため、文化人類学者になろうと思いました。

そのまま文化人類学を専攻したのですか。

馬渕 はい。学校が休みになるたびに1人で世界をまわり、フィールドワーク的なこともしました。たとえばグアテマラの少数民族の村を訪ね、頼み込んで3週間くらいホームステイしながら現地語を学び、彼らの生活のお手伝いをしたこともあります。とても美しい村でしたが、実際に住んでみると病院もないし、薬局もありません。テレビが普及しはじめている頃で、彼らなりに生活を向上させようとしていることがよくわかりました。そこから途上国の人たちが自分たちの文化や社会と折り合いをつけながら生活を改善していくのをサポートするような仕事をしてみたいと思うようになりました。