高1でフェイスシールドの製作・寄付を行う団体「Face Shield Japan」を立ち上げ2200個以上を寄付し、高3のときはフォーブス ジャパンの「世界を変える30歳未満」の30人に選出された立崎乃衣さん。ロボットづくりに打ち込んだ中高時代の様子や、ギャップ・イヤーを有効活用している現在の活動状況、将来の夢などについて語っていただきました。

TOPIC-1

気づいたらロボットを作っており小5でエンジニアになると決意

中学生の頃からロボットエンジニアとして世界的に注目されていますが、現在はどのような活動をされているのでしょうか。

立崎 高校卒業後すぐには大学に進学せず、ギャップ・イヤーを利用して株式会社リバネスの社員として1年間限定で働いています。新設されたアドバンス採用制度の第1号として「モルティング ジェネレーター」という役職をいただいています。教育事業の推進や新規プロジェクトの立ち上げなどが主な業務ですが、実際にはかなり幅広く活動させていただいています。具体的には、中高生対象の教育プログラムの開発や運営を行ったり、エンジニアとしてフィリピンの森林再生のための「植林用播種ドローン」の開発を担当したり、海洋関連の課題解決のためのスタートアップを支援するプロジェクトに参加したりしています。また、最近では「大人が本気でやる学園祭」を企画したほか、次世代がつくる次世代のための研究所「ADvance Lab」も立ち上げました。

こうした活動に携わるそもそもの出発点がロボットだったのですか。

立崎 はい。小3で初めてロボットを作ったのですが、当時は「ロボットを作った」というより「ロボットができた」という感覚でした。自分がなぜロボットに興味を持ったのか、正直いって覚えていません。家族の話では、2〜3歳の頃からホームセンターに連れていってもらい、ネジ1本を買ってもらっては喜んでいたそうで、生まれつきなのかどうかわかりませんが、メカに惹かれていたのは事実のようです。両親も私の興味関心を尊重してくれ、1歳の頃からハサミを持たせてくれましたし、家で遊ぶときはほぼ工作の時間になっていました。

最初に作ったのはどんなロボットだったのですか。

立崎 紙の上に黒い線を引き、その線からはみ出さずに走る車型のロボットです。単に走るだけでは面白くないので、信号機を自作して赤信号になったら止まるとか、障害物が飛び出すとぶつかる前に止まるという機能も付加しました。しかも、当時はプログラミングを知らなかったため、センサーからの電気信号を検出してモーターに流れる電流を制御する回路を作り、電子部品を細かく調整しながら動作させていました。自分の思った通りに機械を動かすことができることにワクワクしていたことを覚えています。

その後、プログラミングで制御できることを知るわけですね。

立崎 ロボット第1号は小3の夏休みの課題として製作したのですが、その後すぐにパソコンで文字を打つと機械を制御できるらしいということを知り、もうこれはやるしかないと(笑)。すぐにタイピングの練習をスタートさせ、LEDを光らせるとか、5分間タイマーを作るといったような実践を通してプログラミングを勉強し、4年生の夏休みには、C言語でプログラミングをした行き先を指定できる車型ロボットを作りました。

小4でC言語を使えるようになったのですね。

立崎 本を読んで勉強したというより、実物を作りながら覚えていったという感じです。5年生の夏休みには、赤と青と緑の3色を認識できるカラーセンサーを備えたロボットを作りました。実は、当時すでに色を見分けるカラーセンサーが販売されていたのですが、その存在を知らなかったため、もしできたら素晴らしい発明になるかもしれないと(笑)、オリジナルのカラーセンターを搭載したカニ型ロボットを作りました。この5年生の時点で、将来はエンジニアになると決めました。

いよいよロボット製作に熱が入ってくるわけですね。

立崎 色を見分けることができたら次は画像認識だということで、6年生ではプログラミング言語のPythonを勉強して、人の顔がある方へ動いていくロボットを作りました。それまでは、車輪やクローラで特定の方向に動くロボットでしたが、この時はオムニホイールという特殊なタイヤを使い、プログラム制御によって360度どの方向にも動けるようなロボットにしました。

TOPIC-2

中学受験の勉強を楽しみつつロボットづくりのために渋幕へ

中学受験を経験されていますが、ご自分の意思だったのですか。

立崎 私の場合はちょっと特殊なケースだと思います。というのも、中学受験や高校受験の勉強に追われることなくのびのびと育ってほしいという親の教育方針で、小中高校12年一貫教育を行っている私立小学校に通っていました。中学受験は必要なかったのですが、中学になって受験組と合流したときに彼らについていけるように、補助的な意味で小4から中学受験塾に通っていました。ですから「受験する気はまったくありません」と言いながら塾に通っていたのです(笑)。

極めてめずらしいケースですね。

立崎 そう思います。受験が前提ではないので、新しいことをどんどん覚えていく勉強自体がとても楽しかったことを覚えています。テキストに載っている理科の実験を自宅で試してデータをとり、それをレポートにまとめて塾の先生に提出したり、オリジナルの問題を作っては塾の先生に解いてもらったりしていました。

受験を決断した理由とは何だったのでしょうか。

立崎 転機はエンジニアになると決めた5年生のときです。小学校時代はロボットを1人で作っていたのですが、まわりにロボットについて話せる仲間はいませんでした。しかし、塾に通っていると、部活でロボットを作れる学校があるなどいろいろな情報が入ってきますし、実際にそういう学校の学園祭なども見に行きました。そのうち、エンジニアになるには、そういう環境が整った学校に行った方がいいのではないかと考えるようになりました。決めたら行動は早く、5年生の2学期には公立の小学校に転校し、受験勉強に使える時間を増やすことにしました。

そこからは中学受験の勉強に没頭したわけですね。

立崎 実はそうでもありません。小学校受験のときから勉強だけに追われてほしくなくという教育方針は一貫していて、子どもは「遊び」が仕事だから最低限の勉強さえすればあとは自分の好きなことに時間を使って良いと言われていました。ですから新しいプログラミング言語を覚えたり、ロボットを作ったり、実験をしたりしながら、のびのびと通っていました。入試が近づくと「○○特訓」のような1日中講習を受ける授業があり、算数や理科の授業を一日中受けられるため、まわりの子たちが「過酷」だと言いながら受けているのを横目に、私一人は「天国みたい」って感じで、辛さはまったく感じませんでした。

渋谷教育学園幕張中高を選んだのはなぜですか。

立崎 完全にロボットが理由です。レゴなどキットを使ったロボットづくりをやっている学校はたくさんありましたが、一からロボットづくりができるような環境はなかなかありません。唯一見つけたのが渋幕でした。不合格だったら自宅から10分の地元の公立中学に通い、部活に入らず家でずっとロボットづくりに没頭するつもりで、渋幕か公立かの2択しか考えていませんでした(笑)。