2019年冬に始まった新型コロナウイルス感染症の世界的流行に際し、経済活動を重視する政府方針と医学的最適解との間で板挟みになりながらも、日本における感染予防対策のキーマンとして大活躍した尾身茂さん。医学部を志したのは大学生になってからという遅咲きの医師に、持ち前の“やんちゃ”精神も含めて、今日までを振り返っていただきました。
TOPIC-1
中学受験の失敗から捲土重来で筑駒へ
どのような少年時代、中高時代だったのですか。
尾身 それを紹介するには、幼少期からお話しなければなりません。実は相当なやんちゃ坊主で、他の子どもたちにちょっかいを出してばかりいるいたずらっ子でした。とうとう幼稚園の先生も音を上げて「できれば園を辞めてほしい」と母に訴えたほど。ですから、私の人生は幼稚園中退からスタートしました。小学校に上がったからといって、すぐにそれが収まるわけもありません。ただ小学校には中退はありませんから、先生も何とか授業中だけでもおとなしくさせたいと考えたのでしょう、教室の最前列の席の前にもう1つ机と椅子を置き、そこが私の指定席になっていました。そんな1、2年生でしたが、3年生のときに、1年前に6年生の兄を筑駒(筑波大学附属駒場中学校、当時は東京教育大学附属駒場中学校)に送り出した先生が担任になりました。兄はおとなしい優等生で、勉強せずに野球や相撲など運動三昧の私とは正反対でした。その兄を見てきた先生から「尾身くんも少しは勉強したら」と諭され、しだいに机に向かって勉強するようになっていきました。すると成績も良くなっています。そのうちに、兄も行けたのだから僕もきっと行けるだろうと考えたのでしょう、筑駒を受験することにしました。
結果はいかがでしたか。
尾身 残念ながらご縁をいただけませんでした。クラスでも成績は1番でしたから、それほど真剣に勉強しなくても受かるだろうと高をくくっていました。算数の問題が思ったより難しく、焦ってドキドキしたことを今でも鮮明に覚えています。当然、公立の中学校に通うことになります。小学校時代から剣道の道場に通っていましたから、中学でも剣道を続け、みんなを集めて野球をしたり、生徒会長を務めたりして中学3年間を過ごしました。ただ、小学校時代と違うのは、勉強を一生懸命やったことです。やんちゃ坊主としては、受験の結果に対して「ふざけるなよ」という反発心があったのでしょう、高校で筑駒に行くことが宿命だと思っていました。多少の緊張はありましたが、試験が終わった瞬間に合格を確信していました。
高校時代にはどんな活動に力を入れたのですか。
尾身 基本的には中学校の頃と変わりません。高校でも剣道を続けましたし、生徒会長もやりました。身体を動かしてみんなでわいわいやるのが好きというのが、結局私の本質なのだと思います。必要に迫られれば勉強しましたが、数学や物理、化学などは好きになれませんでした。筑駒には天才的な数学の能力を発揮する仲間がいるため、そういう理科系の学問はそういうことが好きな人に任せておけばいいと思っていました。当然、医学部進学なんてことは頭の片隅にもありませんでした。
TOPIC-2
アメリカ留学を通して外交官への夢が芽生える

アメリカに1年間留学されていますが、何かきっかけはあったのですか。
尾身 何しろやんちゃ坊主ですから、中学の頃から狭い日本を飛び出して外国に行ってみたいという気持ちを持っていました。だから英語には興味がありましたし、数学で太刀打ちできないのはわかっていましたから、理解できる、できないは別として、高1の頃から時々FEN(在日米軍向けのラジオ放送。現ANF)を聞くようにしていました。これは余談ですが、ある日、アナウンサーが尋常ではない様子で叫んでいるのが耳に飛びこんできました。ネイティブ向けの英語ですから単語しか聞き取れませんが、「……John F Kennedy……、……Dallas Texas……」という言葉に加えて、耳慣れない「……アサシネイティッド……」という言葉がくり返されています。急いでスペルを考えながら辞書を引くと、「暗殺」とあります。ケネディ大統領がダラスで暗殺されたのだとわかり、当時自宅に下宿していた大学生たちに興奮して伝えたことを覚えています。日本でニュースになったのは翌朝ですから、たぶん私が一番早くケネディ暗殺を知った日本人だと密かに自負しています(笑)。
英語への興味が留学につながっていくわけですね。
尾身 留学はAFSという団体が実施しているプログラムで、高1で合格すれば高2の夏から、高2で合格すれば高3の夏から、それぞれ1年間アメリカに留学できるというものです。中学受験のときのようにあまり準備せずに受験したため高1の試験で落ちてしまい、高2で合格しました。高3の夏からですから、帰国すれば1年間卒業が遅れることになりますが、そのことよりも外国で1年間生活することの方が大きな魅力でした。
留学生活で強く印象に残っている思い出はありますか。
尾身 当時の平均的な日本人には海外旅行なんて夢物語の時代でしたから、何もかもが新鮮な経験で、比喩的にいえば、人生のいろいろな思い出はモノクロ写真として残っていますがアメリカの1年間だけが天然色という感じです。なかでもホストファミリーとの交流は印象深いものがありました。私の父は家で政治の話などはしませんが、ホストファーザーはインド哲学を専門にしている大学教授で、しかも熱心な民主党員。家庭でも日常的に政治の話題が出ますし、ちょうど大統領候補を選ぶ予備選の時期でしたから、自分が推す候補者のパンフレットを持って個別訪問も行います。その個別訪問に誘われたので、何でも見てやろうと思い、ついていくことにしました。同じようなフレーズを何十軒も繰り返すわけですから、私も覚えてしまいます。あるときから「1人ずつ手分けして回ろう」ということになり、民主党員でもない留学生の私が1人で個別訪問することになりました。ホストファーザーが推す候補はマクガバンという人でしたが、私は途中から同じ民主党のロバート・ケネディを推すようになりました。あのケネディの弟ですし、何となく惹かれていたからです。もちろんホストファーザーには内緒です。ただ、予備選の最中に兄と同じように暗殺されてしまいます。そのニュースを聞いたとたん、FENのことを思い出し不思議な縁というか、奇遇だと思いました。