TOPIC-3

学園紛争に翻弄され自治医科大学1期生へ

帰国してからの進路はどのように考えていたのですか。

尾身 アメリカ留学を通して、海外の人と交流することの楽しさにすっかり魅了されてしまったため、仕事で海外に行かせてもらえる外交官になろうと思いました。海外特派員の道もある新聞記者も考えましたが、兄が朝日新聞の記者になっていたから、同じ道ではつまらないと、外交官一択に絞りました。そうなると、当然、進路も東大法学部一択です。帰国したのが高3の夏で、翌春の東大入試に向けて猛勉強する気でいました。半年前に東大に現役合格していた仲間たちから参考書を譲り受け、高校にも行かずに受験勉強ばかりしていました。結果的に卒業証書はいただきましたが、アメリカの高校卒業資格があるため、いずれにしても東大の受験資格は持っていました。

当時は、学園紛争の真最中でしたね。

尾身 ええ。アメリカに留学していたため、日本の状況がまったく掴めていませんでした。秋の終わり頃、東大の文化Ⅰ類に進んだ高校時代の剣道部の仲間から電話があり、「来年の東大入試は中止になる可能性がある」と連絡を受けたのです。東大の近くで彼と会い、安田講堂に行ってみると、ヘルメット姿の学生がたき火を囲んでゲバ棒持ってワッショイワッショイ……。話には聞いていた学園紛争を目の当たりにし、東大の入試中止を確信しました。

その時点では、進路をどうしようと考えたのですか。

尾身 すっかり勉強する気を失ってしまいました。再来年の東大入試まで待つという選択肢もありましたが、すでに留学で1年遅れていますから、そこまで引き伸ばす気にもなれず、一応大学には行こうと慶應と早稲田の法学部を受験しました。両方とも合格しましたが、当時は学費が若干安かった慶應に行くことにしました。

慶應大学から外交官をめざそうとしたのでしょうか。

尾身 慶應にも学園紛争の波は押し寄せており、みんなが反権力で盛り上がっているときに、自分だけ外交官になるための勉強するような雰囲気ではありません。外交官はまさに「人民の敵」でしたし、東大出身者が多い中に入っていっても冴えない気がして、どうすべきか本当に悩みました。誰かに相談できる悩みではなく、自分で決めていかなくてはなりません。ですから大学にもあまり行かず、本屋に足繁く通っては解決のヒントになりそうな哲学や宗教、人生論に関する本を読み漁っていました。大学2年のあるときふと目に止まったのが、『わが歩みし精神医学の道』(内村祐之著)という本でした。パラパラとめくっているうちに突然、医学しかも精神医学なら悩みを解決してくれるのではないかと思ってしまったのです。それまで医学など一度たりとも頭によぎったことはなかったのです。まるで救世主のように感じました。その頃読みふけっていた小林秀雄の『無私の精神』にも、状況に応じてそれまでの自分を捨てることの大切さが書かれており、それと呼応したかのように、外交官になるべきか否か…と悩んでいた自分がスッと消えてなくなり、医師になるのだと決めてしまったのです。高校で数Ⅲもやっていないわけですから、普通なら受かるとは思わないはずなのですが、それでも突き進むあたりが、やはりやんちゃのなせる技なのでしょう。

そこから医学部を目指して受験勉強をはじめたのですか。

尾身 医学部に行くと決めたのですから、親の反対を押し切って慶應は中退。さらに親に懇願して1年間だけ予備校に通わせてもらうことにしました。英語はある程度の蓄積はありますが、数学はほとんど勉強してきませんでした。しかし、ここが人生の勝負どころだと思って、こんなに勉強したことはないと断言できるほど勉強しました。一番下のクラスからのスタートでしたが、だんだん成績が上がっていき、秋の終わり頃には国公立の医学部なら大丈夫だろうというところまできました。そんなある日、朝日新聞の1面に載っていた、来春から自治医科大学が1期生を募集するという記事が目に飛び込んできました。地域医療という言葉が魅力的でしたし、学費が無料になるだけでなく、お小遣いももらえて一流の教授陣に教えてもらうことかできるとあります。しかも自分で道を切り開いていく1期生です。やんちゃな身としては、これを見逃す手はありません。運命的なものを感じて、自治医大を第1志望として受験し、合格することができました。

TOPIC-4

医師としての歩みの後半はWHOの感染対策専門家に

いよいよ医師としての道を踏み出すことになります。

尾身 最初は普通の医者になるつもりでした。それまでの紆余曲折がうそのように、悩みもほとんどなく学生生活を謳歌し、医師になりました。自治医大は誕生の経緯そのものが地域医療への貢献にありましたから、卒業後は都立病院で勉強しては、離島で診療に携わる生活を繰り返していました。離島では医師は1人しかいませんから、総合的な診療が求められます。内科、外科はもちろん小児科や産婦人科など様々な経験を積ませてもらうことができました。自治医科大の卒業生は9年間、地域医療に携わる義務があります。その9年間が過ぎ、医師としてやっていくある程度の自信がついてきたタイミングで、次のキャリアをどうするか考えはじめました。そのまま勤務医として働くか、研究の道に進むか、開業するか、あるいは行政に行くのか……。ちょうど、UNICEF(国際連合児童基金)で働いている筑駒時代の留学仲間が休暇を使って帰国していたこともあり、久々に会おうということになりました。自分の状況を話すと「臨床家として患者一人ひとりの命を救うことは大切だが、たとえば小児麻痺の予防接種をしっかり機能させれば、何千万人の命を救うことができる。英語ができて人をまとめることができるお前なら、WHO(世界保健機関)に行った方がいいんじゃないか」と。なるほどと思いました。これが私の人生の最後の大きな分岐点となり、WHOに入ることにしました。WHOではポリオをはじめとして、数々の感染症予防に取り組みました。WHO退任後は地域医療や公衆衛生に関わる様々な機関で職責を果たしています。

これまでのご経験を振り返って、新中1生に何かアドバイスをいただけますか。

尾身 いい中学校に合格できたのは自分一人の力ではありません。まずは感謝の気持ちを持ってほしいと思います。そうして与えられた時間と場所のなかで、どんなことにも一生懸命取り組んでください。職業を選ぶ際に大事なことは「得手に帆を揚げよ」、すなわち自分の得意なことで勝負すべきだということです。言い換えれば、個性に合った職業を選ぶことです。そのためには、勉強も運動も、好きなことにも嫌いなことにも全力で取り組むことです。そうでないと何が得意で何か不得手か、本当に才能がないのか、単に努力が足りないだけなのかもわかりません。この6年間をぜひ自分の個性を発見し、伸ばしていくことに使ってください。

公益財団法人結核予防会理事長
尾身 茂(おみ・しげる)さん

1949年東京都生まれ。東京教育大学附属駒場高校(現筑波大学附属駒場高校)出身。1978年自治医科大学を卒業し、地域医療に従事。1990年WHO(世界保健機関)西太平洋地域事務局。域内のポリオ根絶やSARS(重症急性呼吸器症候群)対策の陣頭指揮を執り、1999年同事務局長。2020年新型コロナウイルス感染症対策専門家会議副座長、新型コロナウイルス感染症対策分科会長を経て、2022年より現職。専門は、国際保健、感染症対策。