高校時代から芸能活動と学業を見事に両立させ、大学卒業後はタレントとして多忙な日々を送っている山崎怜奈さん。両立の秘訣は、学校や大学の勉強と仕事ときちんと区別し、身体も心もギリギリの状態だったにもかかわらず、どちらも手を抜かなかったことだといいます。そんな中高時代や学生時代の思い出について語っていただきました。

TOPIC-1

勉強ばかりの中学時代学年1〜2位をキープ

中学受験を経験されています。

山崎 地元の公立小学校に通っていたのですが、周囲とあまりなじめず、定期的に学校を休みがちな子どもでした。6年生になって母から「このままだと同じような環境が中学でも続くことになるけど、それでいいの?」と聞かれても、なかなか踏ん切りがつかず、夏頃になってようやく中学を受験する決意を固めました。受験までは半年しかありませんし、受験を経験した兄姉もいないため、正直どんな準備をすればいいのかわかりません。中学受験特有の問題への対処も必要ですから、そこから個別指導塾に通うことにしました。小さな頃からゲームや読書が好きで、好きなことなら何時間でも集中できるタイプでしたから、短期間で何かをやり遂げるということは割と得意でした。勉強も苦手ではなく、学校は休んでも通信教材などで勉強を続けていましたから、追い込みが効いたのかもしれません。

受験する学校はどのように選んだのですか。

山崎 第一志望は都立の一貫校でしたが、半年の準備では間に合わず、私立一貫校の郁文館中学に入学することにしました。郁文館を選んだのは、2学年上の幼馴染がそこに通っていて、私が入学する年から共学になることを知らせてくれたことがきっかけでした。「よかったら来れば」と。明治から続く男子校の伝統校で女子1期生ともなれば、先生方も生徒も新鮮な気持ちで学べるのではないかと思ったからです。とはいえ「初年度の授業料が免除される特進クラス合格者の上位4名に入ること」が、入学させてもらえる父からの条件でした。他には出願しなかったため、入学できなければ地元の中学校に行くことになります。それだけは絶対に避けたかったので特進クラス合格がわかった瞬間に父の職場に電話し、「上位4名には入らなかったけど、学費を出してもらえますか」と頼みました。その結果「次年度から授業料免除の対象になること」を条件に入学を認めてもらいました。

小さな頃から独立心のようなものを備えていたのですね。

山崎 自分のわがままで学費の高い私立に行くわけですから、そのくらいの覚悟で勉強しなければならないことはわかっていました。共働き家庭の一人っ子なので一人で留守番することも多く、防犯対策も兼ねて携帯電話も小1から渡されていましたし、その頃からお小遣い制でした。自然と独立心を育むような環境だったことが影響しているのだろうと思います。

その決心通り、入学後の成績もよかったのですか。

山崎 次年度の授業料免除がかかっているため、絶対上位から落ちたくないと中学3年間は本当に勉強ばかりしていました。当時はやればやるだけ結果が出るのが楽しくて、半ばゲーム感覚もあった気もします。ほとんど板書しないのに「僕が話したことはテストに出す」という地理の先生や、義務教育の範囲を超えてどんどんレベルを上げていく英語の先生など、生徒の競争心を刺激するような先生方も何人かいらして、それに応えようとがんばってもいました。結果的に中1〜中3の学業成績は学年1位か2位をキープし中2〜高1は授業料免除、中学3年間の総合成績は首席ということで中学の卒業式では成績最優秀賞をいただき講堂に名前も記されました。

部活動は何をされていたのですか。

山崎 とにかく勉強だけ力を入れていた中学3年間で、部活には興味がなかったというのが正直なところです。ただ、中学3年の3ヶ月間だけは英語部に入部したことがあります。外部の高校も招いて開催する英語暗唱コンテストに出たいと思ったからです。映画「独裁者」でチャプリン演ずるヒトラーのスピーチを暗唱し、身振り手振りで披露して優勝しました。

TOPIC-2

アイドルとの両立で多忙極めた高校時代

乃木坂46のメンバーに選ばれました。

山崎 中3の終わり頃、音楽レーベルから自分宛てに封筒が届き、母が私に内緒でオーディションに応募していたことがわかりました。「受けてもいいし、受けなくてもいい」とのことでしたが、受けないのは失礼かなと受けてみるとトントン拍子に5次面接まで進み、3月末に加入が決まって高1の4月から学業と芸能活動との両立が始まりました。

両立はかなり大変だったのではありませんか。

山崎 特進クラスの成績上位者だったため、高校でも難関国公立大を目指すコースへの進学が決まっていました。当然、勉強もそれなりにハードでしたから、この1年間は本当に寝る時間を取れていなかったと思います。ホルモンバランスが崩れて肌が荒れたり、体重が変動したりと、健康状態もかなり悪かったと思います。芸能界は見た目も重要ですからそうしたことを隠しながら活動するわけですが、さすがにこのままでは続かないと思い、高2からは難関私立を目指すコースに変更しました。

仕事の時間が不規則で、拘束時間が長い芸能活動との両立のために、どのような工夫をされたのですか。

山崎 どうしても学校に行けない日もあれば、遅刻する日や早退する日もありますから、受けられなかった授業の分は、学校に行ける日に先生に聞いたり、友だちに教えてもらったりしながらカバーしました。学校から仕事の現場に向かう電車の中や帰宅する車の中などのすきま時間を使って宿題やテスト勉強などをしていました。「中学まではあんなに成績が良かったのに高校に入って仕事を始めたら成績が落ちた」と絶対に言われたくなくて、死に物狂いで駆け抜けたような感覚があります。学校ではお昼を食べる時間ももったいないので、本当はいけないのかもしれませんが、授業と授業の合間に少しずつ食べられるよう母に頼んでお弁当を小さなおにぎり数個とスープだけにしてもらい、お昼休みには友だちから借りたノートを必死で写していました。体力もメンタルも限界に近く、いつもうとうとしているような日々の連続で、自分でも本当によくやったと思います。

高校卒業後は、どのような進路を思い描いていたのですか。

山崎 普通に大学進学を考えていました。大学に進学することと芸能の仕事を続けることはまったく別だと思っていたからです。体力と精神力をかけた勝負がもう4年続くことへの戦々恐々たる思いはありましたが、進学はするつもりでした。私の状況をよく理解してくださっている高校の先生は、あまりに両立が大変そうな様子を見て「勉強が好きでがんばっているのもわかっているけど、大学は行かなくてもいいんじゃないか」と心配してくださいましたが、そこは譲れませんでした。

慶応義塾大学の環境情報学部に進学したのは何か理由があったのでしょうか。

山崎 当時そこで教えていらした先生が書かれた本を読み、その先生の授業を受けてみたいと思ったことがきっかけです。実は、中学に入学する際に父と交わした条件にはもう1つあり、それは「大学に進学するなら、国公立と早慶以外は学費を出さない」というものでした。高校2年の段階で国公立を目指す選択肢は絶たれていたため、学費を親に出してもらうなら早慶以外にありません。すでに自分で仕事をしていたため、早慶以外なら自分で学費を出せばいいだけのことですが、せっかく興味を持ったので環境情報学部は受けようと思っていました。

一般入試で合格されたのですか。

山崎 結果的にAO入試で入りました。高校の評定平均値は4.6で推薦入試に出願できるだけの成績はあったのですが、地方へのライブ出演などもあって出席日数がどうしても足りず諦めました。当時は夏に3ヶ月かけて全国を回るライブツアーがあったのですが、それに参加すると夏期講習などには行けなくなるため、高校3年の夏に3ヶ月だけお休みをもらって塾にも入り、その休みからできるだけ近い受験日ということでAO入試を受けました。ただ、倍率がかなり高いため、一般入試も受けるつもりでしたし、青山学院大学の文学部と立教大学の社会学部も併願校として考えていました。もともと興味の幅が広く、どこに進学したとしてもそこでしっかり勉強すればいいと思っていたからです。