WILLナビ:よみうりGENKI 次代を担う人材を育てる中高一貫校特集
開成・灘 特別教育対談
社会のグローバル化・高度情報化が進み、英語4技能やICT活用能力に注目が集まっている。しかし、日本文化に根ざして生活し、日本語で考え、話す子どもたちにとって、国語が学びの土台であることは論を待たない。名門校は国語をどう捉え、生徒はどのように学んでいるのか。開成と灘の先生方に聞いた。
教員の自由な発想で授業を進め
生徒の主体性を引き出す
開成中学校・高等学校
校長 野水 勉 先生

――最初に、両校の教育システムやカリキュラムに対する考え方についてご紹介ください。

野水 開成では少なくともカリキュラム編成や先生方の役割分担などは、各教科にすべてお任せする形をとっています。

海保 好奇心や探究心の旺盛な生徒が入ってきますから、それらを満たすあるいは刺激する授業が求められるというのは両校とも共通しているのではないでしょうか。そのため本校でも各教員がオリジナリティあふれる授業を展開しています。しかも伝統的に「担任持ち上がり制」を採用しており、8人の教員から成る担任団チームが担当学年を6年間サポートする仕組みになっています。ほとんどの教科は、原則として1人の教員が主要授業を担当するため、同じ教科の別の教員と進度や内容をすり合わせる必要がなく、6年間を見通した計画的かつ独創的な授業を行うことができます。

新井 確かに自由裁量の部分は大きいと感じています。中高生として身につけるべき国語力が高いレベルに達することが大前提ですが、そのレベルに到達するまでのプロセスに関しては、教材選定から授業展開に至るまで、教員がそれぞれ自分の得意分野や持ち味を生かしつつ、生徒に合わせながら考えていきます。どの教員にも自分の専門とする分野、興味・関心のある文章があります。まずは教員自身が授業を通して学ぶことを楽しんでいる姿を見せること、それが生徒の前向きな姿勢につながり、主体的な学習につながっていくのだと思います。

久下 同感です。生徒にも「僕が面白くないものはやりません」と言っているほどですから。高校3年生の問題演習まで含めて、面白くないと思うものはとりあげませんが、それだけの好き勝手をしている分、授業の準備やテストは手抜きはできません。学年が上がってくると、「次は何を読むんですか」と生徒が聞いてきます。こちらもその期待に応えられるだけのものを用意していかなければなりません。ですから一方的な授業ではなく、生徒からも教えてもらいながら、互いに切磋琢磨し合うような感じに自然となっていきます。

野水 私自身が開成出身ですが、そういえば中2の古文の授業は1年間古今著聞集が教材で、授業の半分以上は先生のお化けの話だったことを思い出しました。昔の話で現在とは違いますが、生徒の関心と教員の個性をすり合わせながら学ぶ点では変わっておりません。


絵や演劇など手や身体を使った理解をめざす(開成)
時間をかけて「通読」させ深い理解をめざす(灘)
灘中学校・灘高等学校
校長 海保 雅一 先生

――両校とも先生ごとに授業のやり方は違うことがわかりました。では、具体的にどんな授業を行っているのか、ご自身の例で教えてください。

新井 私は古文中心に授業を担当しておりますが、文章をどれだけ深く理解できるかということを重視しています。理解するといっても、理解には多様な側面があり、言葉の表現の理解、つまり表現を味わうという面もあれば、その文章が生まれた時代背景の理解、長い歴史のなかでのその文章の扱われ方の変遷の理解などもあり、様々です。そのため、必要に応じて教材や授業の方法を変えています。たとえば中学低学年なら、古文を読んで絵を描いたりします。どんな装束なのか、あるいは単純に東西南北といってもその位置関係がその文章の中でどんな意味を持っているのかなど、一つひとつの表現に引っ掛かりながら読むきっかけになるからです。ときには教材の具体的な場面を演劇として演じさせることもあります。そうすると、表情や姿勢、人間関係など、本文に書かれていないことを、それでも何か手がかりを得ようと何度も本文を見直すことになり、結果的に精読に繋がるとともに、文章をじっくりと味わうことになります。このように中学生の場合は手や身体を使いながら理解することを大切にしています。高校生になると、もう少し言葉そのものにフォーカスします。たとえば『源氏物語』を扱う場合は、鎌倉時代や室町時代の複数の注釈書なども使い、この千年間の様々な解釈を踏まえて古典作品がどのように受け継がれてきたのかということも理解していくなど、徐々に言葉で言葉のことを考えるような抽象的な方法で古典を扱っていきます。

久下 古典は、基本的には通読することを目標にしています。ただ、中1から高3まで同じ教材を使うのは無理ですから、中学の間は「竹取物語」を読み通すことをめざしています。高校では高校を受験して入学してくる新高生と在来生に分かれますが、在来生の場合は高1で「大鏡」を読んでもらい、高2・3は「源氏物語」を読みます。「源氏物語」ではせめて、「桐壺」1帖を読み通したいと思ったのですが、なかなか進まず、光源氏が3歳で終わってしまいました。生徒から「光源氏はどこに出てくるのですか」と言われ、さすがに申し訳なく思って、高3の2学期に成人してからの光源氏の活躍を何場面か読んで許してもらいました。

新井 通読には重なる部分を感じます。私も長くはない「竹取物語」「伊勢物語」「方丈記」「更級日記」を授業で通読しました。方法は異なっていて、50分の授業のうち最後の数分を、今授業で読んだ場面と次回の授業で読む場面の間を各々が自分で読む時間にするなどし、作品の流れが分かるようにしています。教科書は一種のアンソロジーで文学作品の場合には入口として有効なツールなのですが、そこでとどまっていては何のために古典作品を読むのかわからなくなってしまうことがあります。やはり通読は大切だと、今の久下先生のお話を聞いて共感しています。

久下 中学3年間で「竹取物語」ですから、関係する知識もふくめてじっくりと読みすすめます。中2で古典文法がはじまると、古典文法の例文はできるだけ「竹取物語」からとってきます。すると、同じ文章を文法知識をもとに繰り返して読むことになりますから、より精緻な読みとなり理解が深まっていくと思っています。

野水 ちなみに新井先生は演劇部の顧問でもあります。

新井 それもありますが、私には専門と胸を張って言えるものがないので、逆にいろいろな古典をいろいろな方法で授業をしてみようと思っています。ちなみに本校の国語科教員は、文学はもちろん、哲学を専門分野として持つ教員、落語を芸として磨いている教員もおり、それぞれがその専門領域を生かして授業をすることも少なくありません。私と同じ古典の分野でも、日本語学が専門の教員は、言葉の成立の歴史から表現の成り立ちや味わいを解説するなど、言語的背景から生徒の興味を引き出すような授業を展開していたりします。古典文学が専門の教員は複数の作品を比較するなど表現の魅力に生徒が気づく授業をしたりしています。このようにいろいろな教員が、様々な切り口で得意分野を生かした授業を行っています。

人の生き方のエッセンスが詰まった
古典を読まないのはもったいない!
開成中学校・高等学校
国語科教諭 新井 隆 先生

――古典を通じて、生徒にどんなことを伝えたいと思っているのでしょうか。

久下 一つは文化的な広がりを理解することだと思います。たとえば「平家物語」を扱う場合、実盛送りといった民俗行事や、歌舞伎の錦絵などを使いながら、できるだけ「平家物語」という作品の持つ文化的な広がりを感じられるような授業を行っています。また、現代語だとみんな読めると思っており、単語レベルまで降りて言葉として理解して読んでいくことはあまりありません。しかし英語だと単語も文法も習い、意識して読むはずです。つまり、古典には、英語と同じように日本語を客観化して理解し、分析的に読み、書けるようにする手段の一つとしての意義もあると思っています。さらにいえば、長期的な視点も必要です。先日ある卒業生に会ったとき「先生、古典って面白いですね」と言われました。在学中は古典に興味を持てずあまり身を入れて授業に取り組めなかったそうですが、最近ようやく気付いたそうです。人生経験を積んでいく中のどこかで古典が意味を持つ可能性もあるわけで、だからこそ中高のうちに読めるようにしておくことは大事だと思っています。

海保 古典を学ぶことには、自国文化に関する基礎教養を高める意義があると思います。将来どんな形で役立つかわかりませんが、思考のベースとしての知識の集積としてとても大切だと思います。

野水 私は理系の道を歩んできましたが、古文で学んだ「徒然草」は、なぜか心に響いたのを覚えています。古典には漢文もありますが、私はどちらかといえば漢文の方が好きでした。漢文の読解はロジックが強いですから。歴史にまつわる項羽と劉邦の話や、合従連衡という言葉などを今でもよく覚えていて、中国人留学生の会話で話題にすると、彼らも古い歴史を学んでいるので、とても盛り上がりますね。

新井 現在残っている古典は長い年月を経て大勢あったものから残っているわけですから、多くの人に響くような、人間のいろいろな考え方とか感性のエッセンスが盛り込まれているはずです。それを読まないのは、単純にもったいないと思います。また、言葉を学ぶ、あるいは言葉を得ていくということは、人生をかけておこなっていかなければならないものです。十代から何十年と生きる中で、時代とともに、あるいは所属するコミュニティーの移り変わりとともに、様々な言葉に出会います。必要となる言葉はどんどん変化していきます。言葉の背景や微妙なニュアンスまできちんと理解するためには、言葉の感覚というものを体得していることが不可欠です。「理解」ではなく「体得」という点で、やはり古典を学ぶことはすごく大事なことだと考えます。古くからの言葉の流れを自分のなかに身につけることで、その流れの中にある現代の言葉の感覚が磨かれ、さらにその流れの先の言葉もきちんと身についていけるのだろうと考えています。国語という教科の中に現代文と古典がある意義もそこにあるのだろうと思います。

――今の社会は、とにかく何の役に立つのかが問われがちです。役立つという点では古典はいかがでしょうか。

新井 海保先生がおっしゃったように、基礎的な能力という意味で力になると思います。社会生活のなかでは、電卓の登場で四則演算を自分でする機会が減ったように、基礎的な能力が発現する機会というのは少なくなっているかもしれません。しかし、基礎的な能力を身につけているといないとでは大違いで、古典が培う基礎的な言語能力はとても大切だと思います。

久下 言葉を丁寧に一つひとつ読んでいき、理解していくということは、現代文を読む上での技術にもなります。ですから古典と現代文は乖離しているわけではなく、言語生活を送る以上、古典を読む力はあらゆるところに役立っているはずで、むしろ当然の力なのです。

批判的に考える力を身につければ
生成AIはどんどん使えばいい
灘中学校・灘高等学校
国語科教諭 久下 正史 先生

――昨春以来、生成AIの話題が賑やかになっています。中高生の生成AIとの付き合い方や、生成AIと国語教育の関係について、何かお考えはありますか。

海保 我々が検索エンジンやAI検索を使わなければ生活できないように、生徒たちも生成AIを使うのが当たり前になっていると思います。ただ、生成AIは、記号接地していない、つまり言葉が五感や身体経験を通して実世界の意味とつながっていない状態で、統計情報に基づいてそれなりの文章を作ってしまいます。そのような生成AIの言語使用の影響を生徒たちが受けてしまうのではないかということは懸念されます。その意味で、言葉の意味をきちんと詰めて、それを使うという地道な作業が改めて大切になってくる気がします。

野水 本校では、一部の教員は積極的に生成AIを使った授業を行っているようです。生成AIに入力するキーワードによってアウトプットがまったく異なることを学ばせた上で、上手な使い方や、出てきた結果をどう判断するかという力を養うことが大事だと気づかせているのではないかと思います。生成AIに頼って答えを出す能力が身についたとしても、大切なのは、生成AIがないときに自分で答えを出せるかどうかです。利用するのはかまいませんが、自分で地道に力をつけていく勉強は欠かせないと思います。

――生成AIと国語の授業との共存については、何か議論のようなものはありますか。

新井 中高ではまだそれほど盛んではないようです。中高よりも、むしろレポートで単位認定される大学の方が大変だと思います。ただ、すでに開発されたものですから、ひとまず使ってみておくのはいいと思います。現在はまだ粗削りな面がありますが、完璧な言語処理が行われるようになり、パーフェクトな生成AIが誕生したとして現在国語という教科を通じて身につけているものを学ぶ必要がなくなるかといったら、そんなことはないと思います。生成AIが出力するのは基本的には過去の物事に立脚したものであり、これから先のものを作るという点においては人間の創造力が不可欠です。また、生成AIが出力したものに対して、論理の甘さを指摘したり、本当にそうかを疑ったりする力は、これまでと同じように求められるでしょうから、生成AIが登場したとしても国語教育の本質はそんなに大きく変わらないはずです。これまでと同じように、言葉を大切にして、読み取ったことからどれだけ創造できるかということにつながる能力を鍛えることが大切です。むしろ、そのときに生成AIを追い風にできるよう考えていく必要があるでしょう。

久下 かつて電子辞書が登場したとき、紙の辞書を引いて前後の情報に目を通すことに意味があると否定的な考えもありましたが、今では当たり前のように電子辞書を使っています。Wikipediaが登場したときも、誰が書いたかわからない怪しい文章は引用してはだめだと言われましたが、現在はみんな使っています。便利なものが使われるのはとどめられないでしょう。ただ批判的に物事を見る視点はしっかり身につける必要があると思います。大学1年のゼミである著名な辞典を引用したとき、担当教授から「それ本当? 誰が書いたの?」と言われて絶句したことがあります。権威のある紙の辞書でさえ疑ってみることが必要なのかと知った初めての経験でした。生成AIの出力も批判的に扱うことを忘れなければ利用が当たり前になっても対応できるのではないでしょうか。

新井 余談ですが、現在の生成AIが出した文章は個性がなくて面白くないと思います。単純に結果だけをコピー&ペーストするだけでは、その人がやっている意味はありません。生成AIを使う際は、そこに自分が関わる意味を考えてほしいですね。

久下 何か挨拶文を書いてくれというと、本当にもっともらしいものを出してくれます。しかし、心が入っている文章かどうかということになると…。下手でも気持ちが伝わる文章というのはあります。たとえば野口英世の母 野口シカの手紙や、マラソンの円谷幸吉の最期の手紙などは、決して上手とはいえない文章ですが、ものすごく感動するわけです。生成AIには、まだその文章を文章という形にさせる切実な思いというものは読みとれないと思います――もちろん今のところは「心」を持っていませんから――。それらしい文章は生成AIがつくってくれますから、今後人間としては、文章をうみだす根本となる心のありようがより問われてくるのではないでしょうか。

情報への接し方は変化しても
国語教育の中身は変わらない

――生徒の国語力は、デジタル全盛時代になって変化してきているのでしょうか。

新井 良い面をいえば、情報入手は早いし、様々なことをそこそこ広く知っていますね。悪い面を見れば、情報が多いなかでそれに流されているように思います。良くも悪くも情報のシャワーを浴びているため、音声言語も含めれば言葉と接する時間は昔よりも増えている気はしますが、時間が長いだけで、質の面で課題はあるだろうと思っています。

久下 確かに質はだいぶ低下していると思います。少し話題とはずれますが、入手する情報の質の吟味ということも気になります。土曜講座で生徒にレポートを書かせていますが、先日こんなことがありました。文系の生徒がかなり専門的な論文を引用したレポートを提出してきました。論文は、ネット検索で探したといいます。ある分野の代表的な研究書や学術誌はweb上では読めませんが、紀要などは大学のリポジトリで電子化されるため、検索に引っかかったのです。紀要が悪いというわけではなく、その論文を引用するなら、それ以前にもっと基本的な重要論文に目を通してほしい。学術情報に容易にアクセスできるようにはなりましたが、それによって却って、学問の大きな流れを作り出してきた幹となるような重要な研究に到達できなくなったのではないかという気もしています。そういった点は、大学で勉強してもらえばいいといえばそれまでですが…。

海保 私立中学の生徒は受験のときに読解力や表現力を鍛えられているからよいのですが、文科省の「全国学力・学習状況調査」や「PISA国際学力調査」などの結果をみると、日本の中学生はこんなに文章が読めないのかとぞっとすることがあります。とくに算数や数学の問題で、明らかに日本語が読めていないために答えられないとか、記述問題に対する無回答が非常に多いこととか、やはり全般的に読解力が落ちている気がします。

――かなりのスピードで流れてくるデジタル情報と違って、新聞や書籍などの活字情報にはもう少しゆっくりと接することになるのではないかと思います。このようにじっくりと情報に接することの良さ、または大切さのようなものを感じることはありますか。

新井 ありますね。現状の問題点に立ち戻ると、まず世の中全体として表層をサラッとなぞったような文章が増えています。現代はその中でもインターネットにより自分の考えに合うコンテンツだけを手軽に手に入れることができます。同じような文章、同じような内容のちょっと表現を変えたようなものばかりを読んで、内輪で閉じている感じがします。その点、新聞にはいろいろなジャンルの記事があり、興味の入り口というか、視野を広げられる要素が多いという大きなメリットがあります。一方、書籍には、内容に一定の厚さがあります。中にはものごとの表層だけをなぞったような本もありますが、基本的にはじっくりと言葉のひとつひとつを考えながら読み進めていく体験ができます。その意味で新聞も書籍もとても大切です。もちろんインターネットにも大きなメリットがあるわけで、従来の媒体と合わせて活用していくことが必要なのだと思います。

久下 新聞は本当なら毎日読んでほしいですね。さーっと流し読みするだけなら10分もあれば十分ですし、新井先生が言われたように、それこそ野球の話から評論、エッセイ、政治の話、経済の話まで幅広く扱っているため、語彙も当然増えますし、社会生活で求められる常識的な知識も身につけることができます。新聞はその意味で、言葉の力を鍛える入り口としては非常に良いメディアだと思っています。

創造的な場面では手書きが有効?
キーボードとの使い分けが大切

――デジタルツールが発達してきて、キーボードで文章を書くことも増えています。文章を書くという意味で、手書きとキーボードの違いというのはあるのでしょうか。

久下 キーボードばかりになると、漢字が書けなくなるのは仕方ないでしょうね。身体を使って文字を書くという行為と、キーボードを打って目と頭で考えて変換するという行為には、大きな差があるのは間違いないと思います。

新井 学術的な根拠があるわけではありませんが、同じ人間が同じ話題について書いても、手で書くのとキーボードで打つのとでは多少文体や言葉選びが異なるのではないかと経験上考えています。書いているときの頭の使い方も多少違うのではないかと思います。体感的には、物事を創造していくときにはたぶん手書きの方が向いている人が多くて、端的にわかりやすくまとめるならキーボードの方が向いている気がします。メディアを使い分けられることはいいことですが、まとめる力は後から十分に身につけられますから、低年齢世代はまずは手書きで、自分の言葉でいろいろ考えるような学びの方がいいような気がします。

野水 論文をたくさん書く理系の立場からいえば、デジタル機器には大いに助けられました。手書きの時代は日本語の文章を起承転結まで含めてしっかり組み立ててから書き出さないと、途中からどんどん文章がおかしくなってしまい、何度も書き直さなければなりませんでした。その点、ワープロ以後のデジタルツールだと荒っぽい文章でもとにかく書いていけば、あとで構成し直すことができます。デジタルツールはその意味でありがたい存在ですね。ただ、研究ノートは手書きですね。

久下 コピー機がなかった時代の先生方は、偉い先生の論文を手で書き写して論文の書き方を学んだそうです。さすがにそんな時代ではありませんし、自分自身、大学生以来、手書きで長い文章を書いていませんから、生徒にそれを要求するのも酷な仕打ちです。それでも手で書くという作業はどこかには必ずないといけないとは思っています。

海保 英語の場合はもともとタイプライター文化ですから、手書きかキーボードかという議論は聞いたことがありません。やはり日本語という言語に特有な話題なのでしょう。ただし、漢字に関しては、明らかに書けなくなっていることは実感しています。

興味・関心をきっかけに
言語生活を豊かにする心がけを

――最後に国語力を身につけるためには、小学生のうちにこんなことをしておいた方がいいといったアドバイスをいただけますか。

久下 どんな文章でもいいですから、とにかく文章を読むということはしてほしいと思います。何を読んだらいいかは、それぞれが決めればいいと思います。ただ、好きなものを読むということと合わせて、興味・関心を広く持つことも大切です。テレビを見たり、ネットで好みの動画をみているときでもちょっと気になったことを調べてみるなど、できるだけ外に広がっていくような関心は持ってほしいと思います。とくにX(旧Twitter)やYouTubeは、ユーザーが興味のなさそうな話題はどんどん出てこなくなる仕組みになっていますから、知らない間に世界が狭まってしまいます。一定の話題だけで満足するのではなく、ちょっと引っかかったことを「何だろう?」と思う気持ち、自分にないものを知ろうという気持ちは、ずっと持っていてほしいですね。

新井 ほとんど同じ意見ですが、言葉との付き合い方にそれぞれに個性があっていいのだろうということを前提とした上で、自分の好きなものを通して言葉の力の素地を身につけていくことが一番だと考えています。自分が面白そうだと思ったことを見つけたり、出会ったりしたときに、それについて書籍などを活用して深く考えていくような体験を積み重ねていくことが言葉の力になっていきます。好きな分野であれば、自然と自分なりに深く考察していくので、読む力がその過程で鍛えられますし、より適切な言葉を探したり、論理展開を考えたりするようにもなると思います。こうしたことが、将来的なたくましさにつながっていくのかなと考えています。一方で、好きなこと、これだというものが見つかっていな場合は、知識欲だけでいろいろなジャンルのものを読めばいいと思います。幅広く読むことを通して、好きな分野を持っている子たちとも話ができるようになりますし、人間関係も広がり、そのやり取りのなかで自分の言葉が磨かれていくからです。これは大人の世界でも同じです。専門分野を持つ人、いろんな領域をまたいでいる人、領域と領域をつないでいく人など様々な人が必要で、自分の個性を大切にしながら、言語生活というか、言葉と付き合っていってほしいと思います。ただし、自分の言語生活がこれでいいのかということを批判的に振り返ることは常に必要です。自分が今触れているものが、成長過程の中で幼すぎないか、偏りすぎていないかなど振り返ることが大切です。自分一人では難しいため、そういうことを示唆してくれる第三者が必要でしょう。教員の役割はそこにあるのだろうと考えます。

海保 物語を読んでほしいですね。新しい出版物も出ていますが、やはり明治・大正・昭和と時代を経て生き残ってきた小説や物語にはそれなりの価値があると思います。正しい日本語の使い方もわかりますし、複雑なコンテキストを読み解く力や想像力も身につきます。何より、人間は1回しか人生を生きられませんが、物語を読めばいろいろな人生を体験することができますから、大きな財産になります。登場人物の考えや行動について他の人と話し合うと、同じ物語を読んでいるはずなのに、まったく異なる読み方があることがわかり、解釈の多様性を実感することもできます。最近はこうした物語があまり読まれなくなっているので、ぜひ読んでそれを題材に話し合いができたらいいと思っています。

これからの時代に求められる人材像─中高一貫校で育む力─ 栄光学園中学高等学校 校長 柳下 修 先生 女子学院中学校・高等学校 院長・校長 鵜﨑 創 先生 渋谷教育学園幕張中学校・高等学校 校長 田村 聡明 先生